Column

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グローバル社会のボーダーラインをリデザインする

直球勝負。それが、小野雅子さんの選択だった。

2021年6月、清泉女子大学地球市民学科の山本達也ゼミでは、小野雅子さんをゲストにお迎えし、「グローバル社会のボーダーラインをリデザインする」と題したワークショップをおこなった。

午前中は、東京都品川区にある大学キャンパス内の講堂にて、小野雅子さんによるオディッシーダンスを二十数名の学生たちだけのために披露頂いた後で、「自分と向き合う」ワークショップとしてオディッシーダンスの基礎的なポーズに全員で挑戦した。

午後は、ゼミを4つのグループに分け、「グローバル社会のボーダーラインをリデザインする」というテーマで、約1ヶ月半ほどの時間をかけておこなってきた学びと未来構想の成果を、レジュメとスライドを用いながら発表していった。

この特別な1日は、小野雅子さんが「本物」だからこそ可能な、なんの小細工もない、剛速球のストレートを目の当たりにするところからはじまった。

ゼミ生には常々、広い視野、多角的な視点、旺盛な好奇心、頭の柔軟性、何より主体的に学び続ける知的態度の重要性をくり返し説いているものの、現代っ子の代表でもある女子大生とインド伝統舞踊の1つであるオディッシーダンスとの間には、「相当の距離」があるだろうと思われるし、実際にそうであったはずである。

しかしながら、音楽がかかり、舞台袖からオディッシーダンスの衣装をまとった小野雅子さんが登場した瞬間、場の空気も、学生たちの表情もサッと変化した。一言でいえば、「本物」だけが持つ美しさと力強さと、高度な身体表現に心を鷲づかみにされたということである。

言葉を介すことのない小野雅子さんからのメッセージを、ゼミ生全員が五感をフル活用することで、受け止めたはずである。彼女たちは、そういう表情をしていた。


「Think Globally, Act Locally」の精神で、また現場(フィールド)での実践的な活動を通して、小さくてもいいから社会にポジティブなインパクトを与え続けることに挑戦し続けてきた地球市民学科にとって、全世界がパンデミックで苦しむ中、人や国や文化や言語や宗教を分かつ存在である「ボーダーライン」について改めて検討するという作業は極めて重要だと考えている。

この地球上では、現在、80億人弱の人びとが日々の生活を営んでいる。グローバル・シティズン(地球市民)という言葉からは、この地球上から「ボーダーライン」なるものをなくしていくこと、軽々と超えていくことこそが目標であるかのように受け止められるかもしれない。しかし、ことはそう単純ではない。

コロンブス(Christopher Columbus)が、アメリカ大陸を「発見」する1492年まで、世界は、「旧大陸」と「新大陸」が交わることなく、それぞれ文明を発展させていった。それ以降、ある種の「グローバル化」が進行していった。

冷戦時代は、「鉄のカーテン」が東側陣営と西側陣営を分かつボーダーラインとして存在してきた。ただし、それも永遠に続くものではなかった。冷戦の象徴的な存在であったベルリンの壁は、1989年に文字通り「崩壊」をした。

確かに、冷戦以降の地球社会を振り返ってみれば、ヒト・モノ・カネ・情報がかつてない勢いで国境の壁を越え、地球は1つになっていくかのようにも見えた。グローバル化は、世界のアメリカ化であるとして、反グローバル化運動も数多く展開された。

ボーダーラインが相対的に低く小さなものになることで、失われていく文化や言語も生まれていった。多様性に価値を見いだす立場からすれば、ただ単純にボーダーラインを取り払っていけばいいとならないことは明白である。

ベルリンの壁(1989年)@Wikimedia commons

他方、乗り越えるべきボーダーラインがあることも事実である。富める者と貧しき者の貧富の格差は拡大する一方であるし、Black Lives Matter運動は、21世紀のアメリカでも、引き続き、「人種差別」が問題となっていることを浮き彫りにした。また、「#MeToo」運動では、男女間のボーダーラインがもたらす運動の根深さを再認識させ、世界中で未だにジェンダー・ギャップが問題として横たわっていることを可視化することになった。

有名な「バベルの塔の物語」では、人間たちが天にまで届く塔(バベルの塔)の建設をはじめるという「愚かなこと」をはじめたことに神が怒り、そのようなことをするのは「人間が同じ言葉を話しているからだ」と、人間を世界各地に離散させ、異なる言語を話すようにしたという言い伝えがある(『旧約聖書』の「創世記」11章)。このグローバル社会では、確かに、言語や文化の違いによってお互いを「分かり合えない」がために、無用な対立や紛争の火種を作ってき側面があったかもしれない。

ギュスターヴ・ドレ『言語の混乱』@Wikimedia commons

確かに、言語の違いは、典型的なボーダーラインだと考えられるが、こうした言語の違いは、このグローバル社会に広がる豊かで多様な文化の源でもある。言語の違いは、むしろ価値を生んでいるように感じられる。実際のところ、イスラームの聖典である『クルアーン(コーラン)』には、神が人々に違う言語を話させたことの「真意」が書かれている。

その真意とは、《人びとよ、われ(アッラー)は一人の男と一人の女からあなた方を創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである》(部屋章:13)というものであり、「互いに知り合うようにさせるために」、あえて種族と部族に分けたと言っているのである。ボーダーラインがあるからこそ、「互いに知り合おうとする」努力が生まれ、そこに人と人とが交流する価値が生まれるということなのかもしれない。

このように、現在のグローバル社会には、取り払うべきボーダーラインも、守るべきボーダーラインも存在しそうである。私たちは今、あるべき未来のグローバル社会の実現に向けて、どのような形で、この地球上のボーダーラインをリデザインしていくべきなのだろうか。

これは、地球市民学科の学生にとって、深く考えておくべき重要な問いである。今回のワークショップは、この大きな知的探求と実践に挑み続けていくにあたり、ゼミ生全員にとって貴重な第一歩となったことは間違いない。



【映像】小野雅子×清泉女子大学山本達也ゼミ「グローバル社会のボーダーラインをリデザインする」 | Border Line in TOKYO