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オディッシーダンスの歴史

ムリダンガム、ダッカ、ハープ、フルートを演奏する楽隊を伴ったダンサー@Wikimedia commons

発祥をさぐる

オディッシーダンスは、いつ頃生まれたのでしょうか。
舞踊というかたちのないものの発祥を探る手掛かりのひとつは、彫刻です。紀元前2世紀頃の建立とされているオディシャ州・ウダヤギリ石窟寺院内の「ラーニー・グンパー洞窟」には、楽団を伴ったダンサーの彫刻が残っていて、これがインド最古の舞踊彫刻とされています。

そしてもうひとつの手がかりは、文献です。
紀元前2世紀―後2世紀頃に、バラタ・ムニ(バラタ聖仙)により書かれたとされる最古のインド舞踊についての聖典『ナーティヤ・シャーストラ』によれば、代表的な4つの踊りとして「Abanti、Dakshinatya、Pandhali、Odra Magadhi」とあり、「Odra」とはオディシャのサンスクリット語の古代名であることから、オディシャ地方ではこの時代すでに確立された踊りがあったことがうかがえます(「Odra」という言葉は、偶然にも、日本語の「踊り」と似ていますね)。
一般的にはインド8大古典舞踊のうち、バラタナティヤムが最古とされていますが、この最古の舞踊彫刻と最古の舞踊文献から、オディッシーが最古の舞踊とする学説もあります。

はじまりは巫女舞

オディッシーダンスは、神殿に仕える巫女「マハリ」の奉納舞が原型になっています。
マハリは「神の花嫁」とも呼ばれ、献身的な信愛を捧げながら、神との霊的交信の役割も担っていました。マハリの存在自体は紀元2世紀頃から確認されていますが、奉納舞の始まりについては諸説あり、およそ10世紀頃というのが一般的です。しかし、オディシャ州に数多く残る石造寺院…パラシュラーメシュワラ寺院(7世紀)、ムクテーシュワル寺院(9世紀)などには、オディッシーダンスを彷彿とさせる舞踊彫刻が数多く残っていることから、起源はかなり遡るとする説もあります。

時を経て、12世紀に宮廷詩人ジャヤデーヴァ(オディシャ州または近隣の州出身とされる)により、神を讃えるサンスクリット語抒情詩『ギータ・ゴヴィンダ』が編まれます。ヴィシュヌ神の化身であるクリシュナと牛飼いの乙女ラーダの恋物語は、神と信者の交信のメタファーでもありました。マハリたちはこの抒情詩にのせて、同じ頃に建立されたジャガンナート寺院内で、ジャガンナート神(オディシャ土着の神であり、クリシュナと同一視される)と結婚するための舞を踊ったとされています。今も、オディッシーダンスの舞台上手に必ずジャガンナート神の像が祀られているのは、このためです。

神への奉納舞として王朝から推奨されたこともあり、舞はますます発展していきますが、マハリたちは寺院の外で踊ることは決してなかったため、一般大衆が舞を見ることはありませんでした。その存在自体も知られていなかったようです。
オディシャ州の石造寺院群は13世紀に建てられたコナーラクの太陽寺院(スーリヤ寺院)でひとつの頂点を迎えます。太陽神を祭った本殿の前には神のための舞を踊ったとされる舞台があり、柱には数百体の見事な舞踏彫刻が刻まれています。

スーリヤ寺院の舞踊彫刻 photo:Takayasu Hattori

巫女舞の衰退とゴティプアの登場

16世紀には女性による舞踊を認めないヴィシュヌ派の大臣により、「ゴティプア」(オディシャ州の現地語であるオディア語でゴティ=独身、プア=少年の意味)という、女装した少年による舞が創設されます。少年たちに舞を教えたのはマハリではないかとされていますが、ゴティプアたちは寺院内で踊ることは禁じられていました。寺院の中でしか踊れないマハリ、寺院の外でしか踊れないゴティプア。彼らはどこでつながっていたのでしょう。
その後、ムガル帝国など相次ぐイスラム王朝の侵略により、寺院での宗教儀式は弾圧されてしまいます。寺院の外では踊れないマハリたちによる踊りは衰退していきますが、少年たちによる舞ゴティプアは寺院の外や村の広場などで披露され、発展していきます。
ゴティプアはダンサー自ら歌を歌い、表現もアクロバティックで大道芸的な要素を含み、大衆を意識したものであることがうかがえます。ゴティプアの伝統は途絶えることなく受け継がれ、現在もプリーの祭りには欠かせないものとされていますが、寺院の中で踊ることは禁じられたままとなっています。

ゴティプアの舞(オディシャ州・プリーにて)2005年 @wikimedia commons

オディッシーダンスの復活

1950年頃、ゴティプアダンサーであったケルチャン・モハパトラ(オディシャ州ラグラジプール生まれ、1928-2004)を中心としたグループが、オディッシーダンス復興を試みます。
モハパトラたちは、オディシャに残る寺院の舞踊彫刻の数々をはじめ、椰子の葉に描くターラパタチットラ絵画、聖典『ナーティヤ・シャーストラ』、隣接する西ベンガルの民俗舞踊「チョウ」、そしてゴティプアダンスの中に、失われた神殿舞踊を見出し、甦らせました。長い研究の末に洗練された舞台芸術として体系化し、この時初めて、オディシャ州で生まれた舞踊であることから「オディッシーダンス」と名付けられます。この功により、モハパトラはインドで最高の栄誉ある賞、日本でいう「人間国宝」にもあたる賞を授与されています。

ケルチャン・モハパトラと、オディッシーダンスの舞台に祀られるジャガンナート神。
“Odissi Dances of India”,Sharon Lowen, 2009より

こうしてオディシャの民衆は、千年の昔に生まれ、神殿の外から決して出ることのなかった古典舞踊の存在を、初めて知ることになります。神にのみ捧げられた純粋で神聖な踊りは、信心深いオディシャの人たちの心を揺り動かしただけでなく、外部にも驚きと感動を持って支持され、モハパトラたちグル(師)のもとには国内外から教えを乞う人々が集まりました。現在はインド政府機関の保護・奨励を受けながら、学術調査と実践の研究がなされ、世界各地で公演活動がおこなわれています。